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「やすらぎとうるおいのある町づくり」

福岡県黒木町長  小川 光吉 

 黒木町は黒木町は福岡県の南部に位置し、東は大分県境の矢部村、南は熊本県と隣接する135km2人口約13,900人の山村です。

 大分県境の釈迦岳(1,230m)御前岳(1,209m)に源を発する清流矢部川が瀬となり淵となって町の中心部を貫流し、有明海に注いでおります。

 周囲は緑豊かな山々に囲まれた山紫水明の町で、今日まで肥沃な土地は豊富な農林産物を育んできました。長い間水稲、八女茶、ミカンを基幹産物に、中山間地では林業を組み合わせた農林兼業が多くありましたが、近年ではこれらに巨峰ブドウ、イチゴ、ナス、花卉等の施設農業を組み合わせた複合経営に移行しています。

 四世紀半ば、景行天皇巡幸の砌「この地に女神あり、その名を八女津姫といい常に山中にある」と奏上し八女の地名が起こったとされております。

 南北朝時代には、南朝征西将軍懐良(かねよし)親王、後征西将軍良成(りょうせい)親王が来西され、補佐された五條家が住むところとなり、公家文化の香りを残しております。

大藤
お茶の里記念館と霊巌寺の奇岩群

  国道の上にまでのびた国指定天然記念物の黒木大藤は、良成親王の御手植(1395年)といわれております。また、15世紀初頭中国蘇州市の霊岩山寺で修業された出羽の学僧栄林周瑞(えいりんしゅうずい)禅師が本町笠原の霊巌寺で茶の種子を与えられたのが八女茶の起源といわれており、茶の生産は中山間地域居住の大きな支えとなっております。樹齢800年の大楠もあります。

 現代に活躍する当町出身の文化人として、日本で最も人気のある女優の黒木瞳さん、洋画家の吉田民尚氏、裏面から日本の歴史に光を当てる歴史小説作家の安部龍太郎氏がおります。

 黒木町は昭和29〜32年6町村の合併で人口23,000人余りでしたが、平成17年には13,615人(H17国勢調査)まで減少し、高齢化率も30%を越えておりますが、幸い国民健康保険、介護保険等の数値では福岡県下で1.2番目の健康優良地域であります。

 平成16年4月からは、全県を校区とする県内唯一の県立中等教育学校が開校されました。また、平成17年3月にオープンした「くつろぎの森グリーンピア八女」も民間の企業経営の手法を活用して健全に経営され、大きな期待がもたれています。

 今日まで長年にわたり過疎対策事業の恩恵を受けて地域づくりを行ってきましたが、今後もふるさと再生事業などを生かして、町民の自立と協同の下で、自然と環境を守り前向きな活力をもって生活できる地域づくりにつなげていきたいと思っております。

 くつろぎの森グリーンピア八女

   

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「どの地域にも必ず未来はある」

佐賀県多久市長  横尾 俊彦 

 全国1804市町村の40.9%にあたる738市町村が過疎地域だ。日本の人口の8.4%で、面積では54.1%にあたる。つまり国土の半分以上が過疎地なのである。

 過疎地域指定の要件は急激な人口減少、財政力指数0.42以下など。まさに厳しい環境にある自治体が過疎自治体で、それぞれ振興策を推進中である。だが未だに過疎脱却が叶わぬ地域が多いのが現実であるように思う。市町村合併しても過疎脱却に至らない状況も横たわっている。

●リメンバーKASO
 極端な人口減少の例に、エネルギー政策転換による石炭産出地域からの人口流出がある。その打撃は大きかった。財政再建団体となった福岡県赤池町や北海道夕張市も旧産炭自治体であり、周辺にも厳しい財政の自治体がある。でもかつては日本の富国強兵・殖産興業を支えた地域である。

 多久市も同様の経験がある。石炭産出と再建団体の経験だ。石炭最盛期には市立北部小学校の生徒数は全国有数といわれたし、多久駅構内では蒸気機関車が何台も往来していた。炭鉱に生命を懸けた人々の汗が高度経済成長を可能にした。しかし閉山。その後、地域は疲弊し、課題が残った。

 直面したのは財政再建の問題。多久市は昭和30年代に体験した。当時の藤井市長は国会の石炭産業政策審議に参考人として意見を述べた。市OBは「鉛筆一本も自由に買えなかった」と回顧する。

 だがその体験から、財政に手堅い気風が生まれた。歳入は控えめに見込み、決算での残余は基金に積む工夫だ。それは将来に少しでも余裕をとの思いからだった。

 目に見えない課題もあった。石炭全盛期には、「鉱業会社が何でもしてくれる」という空気が地域にあったと聞く。その流れで今度は「役所が何とかしろ」と思いたい気持ちは理解できるが、現実には困難だ。商業も繁盛したが、「人口増依存で経営改革は希薄だったかもしれぬ」という回想もある。

 そもそも依存体質は変革を遅らせる。依存意識を脱することが過疎問題克服には重要である。まして地方分権改革の時流の中、自治充実の取り組みが重要なだけに、地域の人々の自主自立の気概と自治体の経営改善努力が重要になる。それは最も重要な未来へのチャレンジともいえる。

 しかし気になる流れもある。国政選挙に小選挙区・比例区制が導入され、政党も候補者も有権者の多い地域に注目しがちになりはしないかいうことだ。過疎地への理解不足が加速されると、国土保全も脆弱なものになるかもしれない。最近の土砂災害なども過疎地域の森林や山河を巻き込み発生しており、その対策もおざなりになるのではないかとさえ心配されるからだ。

 一方では過疎地のもつ機能も広く知られるべきであると思う。都市住民の癒しやストレス発散、清らかな水や空気、安全な食糧などは過疎地域の野山や海川が可能にしてくれている。電気もそうだ。

 さらに景観という魅力もある。先日、蒸気機関車の走る田舎風景に触れた。なんともなつかしい。日本の美しい風景が輝いていた。このような地域の景観も海外にもっと紹介するべきと思える。

中国式の儀式「釈菜」
地元中高生による「釈菜の舞」

●「過疎という考え方がない……」!
 かつて自治省を訪れたとき当時の財政局長から「欧州には過疎という言葉そのものがない」との話を伺った。非常に印象深く心に残っている。また地域活性化の専門家から、フランスの「どの地域にも未来はある。無いのは戦略やビジョンだ」という名言を聞いて、言い得て妙だと感じた。

 いまの状況は、疲弊した地域を目の前にして、対処療法的な対策に留まっていないだろうか。戦略やビジョンをもっているだろうか。そのうち誰かが何とかしてくれるだろうという根拠のない依存心(甘え)を絶ち、難しいならせめて依存心を減らし、未来への夢やビジョンを描くことから始めるべきではないだろうか。子や孫に託す夢でこそ人はパワーを発揮するのだから。

●大きな夢への小さな積み重ね
 多久市は、小さくともキラリと光るまちづくり、美しいまち多久の創造をめざしています。
 佐賀県中央部にある文教の里です。来年に創建三百年を迎える孔子廟である多久聖廟があります。三世紀前に、時の領主・多久茂文が学校を建て、孔子廟の建立を思い立ちました。思えば、学問の興隆と、さらには人々の意識改革・良識育成などを強く願ったのだと感じます。それから300年間、孔子様をたたえる春秋の釈菜(せきさい)は連綿と続けられています。

 孔子様の生誕地である中国山東省曲阜市とも友好都市交流として様々な交流を行ない、平成の時代になってからは中国につたわる孔子を賛美する「釈菜の舞」を導入し、腰鼓、獅子舞とともに市民にも親しまれながら披露しています。

多久聖廟の「孔子像」 1708 年に建立された「多久聖廟」

 さらに近年は、「論語カルタ」をつくって、学校で子供たちが親しみながら暗誦暗記するとともに、論語カルタ大会も行なっています。小学1年生から中学生までが、大人顔負けのスピードで論語カルタを競う姿は壮観です。保育園の一部でも論語暗唱が始まったようです。論語の言葉の詳しい理解は人生を積み上げながら行うとしても、まずは大事な言葉を身につけることから始めているのです。

百人一首式の「論語カルタ」
孔子の教えを学びながら競い合う
「論語カルタ大会」

 また漫画サザエさんの生みの親・長谷川町子先生も多久で誕生されました。このことは意外と知られていません。誰もが親しめ、家族愛や日常のあたたかさにあふれるサザエさんをはじめとした磯野家の姿は、人々が求める大事なものを伝え続けています。東京にある長谷川町子美術館の訪問者メッセージコーナーを見るだけでも、そのことがわかります。生誕地の御縁をもって、新たなまちづくり、心おこしのエネルギーにしたいと願っています。

 産業面ではこの1年半で6社の企業を誘致できました。リース方式や特区方式などの工夫の成果です。定住促進策も4月から展開し、20家族を超える定住が確定し、問い合わせも続いています。

 何事にも知恵と工夫だと思います。少しでも、わずかでも、できることから改善をして、よりよい地域づくりに、新たな行政経営の実現に、日々新たに努めたいと思っています。

(横尾多久市長は現在、地方分権改革推進委員会の委員としてご活躍中)


   

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「石炭の島から癒しの島へ」

長崎県高島町長  豊田 定光 

 高島町は、長崎市から南西海上約14.5km、長崎港から高速艇で35分のところに位置し、高島・端島(軍艦島)・中ノ島・飛島の4島からなり、現在では有人島は高島のみであります。また、面積1.27キロ平方メートルで、人口は約978人(平成12年10月31日現在住民基本台帳人口)であり、面積・人口ともに日本で一番小さな町であります。

この高島は、石炭発見の地として有名であり、また、隣接する端島も海底炭採掘の基地として、逐次周囲を埋め立て、その上に日本で最初の高層鉄筋アパートなどを築き、人工島を形成したものであり、その姿から軍艦島として全国的に有名な島であります。

 しかし、1974年1月に炭量の枯渇により端島砿が、更に、1986年11月には石炭産業の転換により高島砿が閉山し、約120年にわたる石炭の町としての歴史に幕を閉じることになりました。

 基幹産業であった炭鉱の閉山に伴い、人口は激減(最盛期22,000人→現在約980人)し、経済社会は大きく後退して、町は崩壊の危機に直面しました。

 このような状況の中で、町の生き残り策として、活路を拓くべく「石炭を魚に変えて島おこし」のキャッチフレーズのものに計画した「マリノーベーション拠点漁港漁村総合整備計画」が全国10地区のうちの一つとして平成3年3月に認定を受けました。(平成7年3月「高島地区新マリノベーション拠点交流促進総合計画」として再認定)

キャンプ場
人工海水浴場

 この計画により、漁港の修築事業をはじめ、磯釣り公園や人工海水浴場などの整備を行い、水産業の振興や都市との交流を促進し、地域の活性化を図るべく事業を進めているところであります。

1996年7月にオープンした飛鳥磯釣り公園は、高島から340m程離れた飛鳥を防波堤と橋で結び、飛鳥一帯を釣り公園として整備したもので、釣りの好ポイントであったことから、大きな反響を得ているところです。

 また、同年にオープンした人工海水浴場は、元小学校であった場所に人工の砂浜を造り、シャワー室・更衣室・休憩所を完備した管理棟があり、この背後地には、10人用の台座付テントサイトを配したキャンプ場を整備、更にバーベキューセット貸し出し等も行っており、毎年7月8月には多くのファミリー客などで賑わっています。

 高島が描く未来図は、決して「高級リゾートの島」ではなく、家族みんなが気軽に楽しめる「癒しの島」でありたいと考えております。

 島の大自然の中で、初めての人でも気軽にリフレッシュを楽しんだり、家族みんなで泳いだり、浜辺でバーベキューをしたり、そんな心身ともにリフレッシュできるような島でありたいと願っています。

 このように、日本一小さい町、高島町は、石炭の島から海を核とした観光の島へと、今生まれ変わろうとしています。

飛鳥磯釣り公園

   

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「海とみどり、歴史を活かす癒しのしま、壱岐」を目指して

長崎県壱岐市長  長田 徹 

 壱岐市は、平成16(2004)年3月1日、長崎県壱岐郡郷ノ浦町、勝本町、芦辺町、石田町の4町が合併し、人口約3万3千人、長崎県下10番目の市として誕生いたしました。

 福岡県と対馬の中間地点で玄界灘に面する壱岐市は、博多港から郷ノ浦港まで76キロメートル、佐賀県呼子港から印通寺港まで26キロメートルの位置にあります。南北約17キロメートル、東西約15キロメートルのやや南北に長い亀状の島で、総面積は138.46平方キロメートル、壱岐本島と21の属島(有人島4・無人島17)からなる全国で20番目(沖縄は除く)に大きな島です。

猿岩(郷ノ浦町)
原野辻遺跡(芦辺町)
猿にそっくりな、高さ45mの海蝕崖の玄武岩で、壱岐を代表する景勝地の一つです。 平成12年に国内3ヶ所目となる特別史跡に指定されており、平成21年度には「県立埋蔵文化財センター」及び「一支国博物館」もオープンの予定です。

 昭和43(1968)年に壱岐の一部地域が壱岐対馬国定公園に指定され、また昭和53(1978)年には、辰の島・手長島・妻ケ島の3カ所が海中公園地区に指定されるなど自然景観にも恵まれています。

 また、中国の「魏志倭人伝」に「一支国」として登場いたします壱岐には、弥生時代から近世にかけての歴史遺産が満ちあふれております。特に、「原の辻遺跡」は、国内最大級の環濠集落であり、弥生時代の集落としては、国内3カ所目となる特別史跡として、平成12(2000)年に国指定を受けております。

 産業では、農業が水稲・葉たばこ・肉用牛の基幹作物を中心に、メロン・いちご・アスパラガスなどの施設園芸や野菜・花きなどを取り入れた複合経営が主体となっております。水産業は、好漁場に恵まれ、イカ・ブリ・マダイ・マグロなどを主要漁獲としており、また岩礁地帯が多いことからアワビ、ウニなどの磯根資源も豊富です。

 観光では、通年型観光機能の充実、体験型観光の促進のほか、外国からの観光客を誘致するなど、国際観光の推進を図るとともに、農業・水産業など異業種との連携による活性化を図っています。

イルカパーク(勝本町)
筒城浜海水浴場(石田町)
入り江を利用し、イルカを飼育している施設で、現在、6頭のバンドウイルカが飼育されています。 「快水浴場百選」や「白砂青松100選」にも選ばれている、壱岐を代表するビーチです。

 先人の皆さまが育んでこられた碧い海や豊かな緑などの恵まれた自然、そして人情味あふれる風土は、次代に引き継いでいかなければならない島の貴重な財産です。こうした歴史遺産や豊かな自然環境などの地域資源を生かし、全国に、また、これからは世界に情報発信することによって、交流人口の増加を図り、農業・漁業はもとより、地域産業を再生することがわれわれの課題だと思っております。

 本格的な地方分権時代を迎えた今、合併を契機として市民一人ひとりの英知を結集し、ゆとりと豊かさを実感できる「海とみどり、歴史を活かす癒しのしま、壱岐」を目指して、新しいまちづくりを進めてまいります。

壱岐神楽
舞も音楽もすべて神職のみで行われ、国指定重要無形民俗文化財にも指定されています。

 

   

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住民と行政の協働による「まちづくり」を

熊本県三加和町長 池上 緑良 

 三加和町は、熊本県の最北部に位置する福岡県との県境の町で、筑後山地の支脈である標高200〜400mの山々に囲まれ、また、3本の清流を有する、豊かな自然に恵まれた町です。

 昭和30年に3つの村が合併して三加和村が発足し、昭和43年11月に町制が施行され三加和町となり現在に至っています。合併当時の人口は1万人を数えましたが、平成12年の国勢調査では5,647人に減少し、また高齢化率は32.4%と少子高齢社会を先取りしています。

 本町には、県下におよそ600近くあるといわれている中世城跡の中でも代表的な田中城跡をはじめとする多くの文化財があります。


和仁(わに)三兄弟像

 田中城は、肥後52人衆に数えられる「わ和に仁ちか親ざね実」を城主とする山城(1587年に豊臣秀吉に滅ぼされた)で、中世から近世の過渡期の城としては県下最大級の規模をほこり、昭和61年に熊本県指定史跡、平成14年3月に国指定史跡となりました。

 また、目、耳、歯、命、イボ、胃、手足、性の体にまつわる八つの神様(八福神)が点在しており、ハイキングをかねてこれらの神様めぐりができます。
 さらに、良質な天然温泉施設は連日県内外から多くのお客様が訪れ、三加和の素晴らしさを満喫いただいているほか、平成11年4月には、株式会社「肥後元気村」(町全額出資の法人)を発足し、町の自慢の物産で広くその自信と誇りを打ち出しています。

 そんな歴史と風土、自然に恵まれた静かな町で、住民主体の地域づくりを本格的に取組み始めたのは平成7年のことでした。

 従来の行政主導の町づくりに限界を感じ、住民と行政の協働によるまちづくりを目指す取組みを始めました。基本理念として夢と希望の持てる21世紀にしようと「夢世紀みかわ」を掲げ、「あなたがいてこそ三加和町」をキャッチフレーズに、互いに認め合い、協力しあうまちづくりを目指しています。このため、新しい住民自治組織の設立を促進し、自立した地域として、地域自らの選択と責任に基づく地域づくりを展開しています。

 更に、今後は、町職員が担当地域をもって、まちづくりに積極的にかかわっていく「ふるさとパートナー」制度を導入し、住民と職員が一体となった町づくりを推進していくこととしています。

 昭和の合併から50年、今、広域合併が推進されています。本町も例外なくその流れの中にあります。広域化による不安を払拭する為にも、地域が自立し、地域の自治力を高め、分権社会にふさわしい自立した地域を育てることこそ、行政の役割であると自覚し、『夢世紀みかわ』の実現をめざしています。


三加和温泉ふるさと交流センター

   

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過疎地は「日本の宝」

熊本県有明町長 久保進一郎 

 人口6,200人余、世帯2,200、面積59km2、九州・有明海に面する我が熊本県・有明町の実態である。もちろん、昭和46年に過疎地域に指定され、更に人口減少が続くと思われる。そんな有明町も、平成18年3月27日には天草上島、下島の2市8町が合併し「天草市」となる。総面積682km2という広い地域の中に人口10万人の新市が誕生することとなる。

多目的ダムの「上津浦ダム」

 さて、全国に2,300ほどの市町村あるが、そのうち過疎市町村は890町村であり割合は37.5%、面積で見ると日本の総面積が377,873km2に対し過疎市町村の面積が195,631km2で、割合が51.8%である。人口で見ると、日本人口1億2,600万人余に対し、過疎地人口が938万人余で、割合は7.4%余である。人口7.4%余の人達が、日本の面積・国土の51.8%を支えていると言える。これが、今の日本の現実、現状である。

 このような中で、大きく合併したとはいえ、過疎地域の現状は、そんなに大きく変化するとは思えない。一層の空洞化現象となるのではないかと危惧するものである。

 私達の先人たちは、江戸期から、更には明治の合併、戦前・戦後、昭和の合併を経ながらも、脈々と悠久たる営みを続けてきたし、私達も今後もこの地域を離れることなく永遠と生活史を綴っていくことであろう。それは、個性ある地域の自然や風土の中から人の営みである「地域文化」が生まれ、それを守り育てようとする努力に他ならないと考える。地域文化とは、生活文化、芸術文化、食文化であり、その周りを取り囲む自然や気候、生物などの環境と一体となって営まれてきたものである。

有明町の夏の風物詩
「干しダコ」
500mの白砂が続く
「四郎ヶ浜」ビーチ


 人々は、過疎という一つの命題を抱え込みながらも、少しでも他の地域とは違う「輝き」を求めて、地域の良さに自信を持ち、共存・共栄しながら発展してきたと言える。しかし、現実を見る時、永久に「過疎」という命題はうち消せないものなのか。いや、違うと言いたい。この現実の中においても、もっと輝いてくれる「人」と地域の「資源」があるのではないか、それに気づいていないのではないか。今一度「地域文化」を見直すことが重要な課題ではないだろうか。その努力を忘れた時が、本当の過疎地となるのではないだろうか。人と、地域との交流に限界はないと考える。実際、地域間交流により現在でも光り輝いている地域があるではないか。

 私は、この過疎地がやがて「日本の宝」として、人々の心の中によみがえらなければならないと考えている。過疎地域の中に、中山間地域又は離島に暮らしている人々は、必死に生活しながら日本と国土を支えている。人々の目をもう一度過疎地に注ぎ、「日本人の心の宝」、「日本人の地域の宝」を守ろう、と皆様に訴えたい。

温泉センターと物産館の「リップルランド」

   

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熊本県山都町長 甲斐 利幸 

 山都町は、平成17年に矢部町、清和村、蘇陽町の3ヵ町村が合併し発足した町である。
 阿蘇外輪山の南裾野と、九州脊梁の西側に位置し、県下3番目の広大さを誇っている。
 昭和30年代に、4万3千人を擁した人口も、今は1万7千人を切り、農林業の低迷や職場の少ない町の宿命として、若い世代が都市へ流出してしまったことによる少子高齢化が進んだ典型的な過疎の町である。
 平成23年度の当初予算は、126億円と県下市町村のなかで、10位程度にランクされるが、合併に伴う優遇や過疎地措置の恩恵を受けての財政運営である。
 農林業と観光の振興を過疎対策の主要な政策として位置づけ、尚一方、高速道の整備が都市部への通勤条件が改善する等、地元で生活できる環境づくりに躍起となっている。

道路美装化工事(石畳の歩道・街路灯等)完了後の町並み


 農業振興では、有機農業の町として独自のブランド化を図っている。規格外農産物を活用した離乳食の商品化、ライブカメラによる有機農産物の生産状況観察システムなど町として支援してきた。また、広域の家畜疫病や鳥獣害、自然災害等、個人で対応できない部分についても思い切った即応対策を行った。
 林業では、森林のもつ公益的機能の維持の必要性を考え、再造林について5年間、国県補助に上乗せするなど、林家負担を軽減する支援制度を設けた。
 観光面では、九州新幹線が全線開通し、熊本市から東への観光客誘致が命題となる。阿蘇や高千穂も近く、通潤橋、五老ヶ滝、文楽館、幣立宮等の人気スポットは、山間にあって交流を期待できる観光地である。
 商店街の美装化も進めている。空き店舗増加の現状もあるが、将来、高速道の供用開始による人口流入に期待して、魅力ある街並みを整備している。
 生活基盤の条件整備も施策上位に据え、道路網の整備のほか、多様化した生活スタイルに対応した携帯電話の不感解消、地デジの難視聴対策、ADSL によるブロードバンド対応等、ICT デバイドの解消にも、集中的にとり組んでいる。
 九州の主要河川である緑川と五ヶ瀬川の最上流域にある町として、生活排水の浄化責任を自覚し、浄化槽設置には個別から面的整備まで段階的助成制度を設けて促進している。

図書館ボランティア活動
(本の読み聞かせ)
健康づくり推進活動


 合併を機に自治振興区という組織を立ちあげ28の新たな住民自治組織が生まれた。思いきった助成金の交付により活動が担保され、住民自治組織としての新たな頼もしいうねりがみられる。この自治振興区に健康推進員を置き、健診受診達成率65%以上を目指したが、従前の委員制度よりも、大きな成果をあげることができた。
 明るい福祉社会の実現のためには、人の絆による協働が必要である。社会福祉協議会や民生児童委員の活躍、更に老人クラブの自主的活動は、本町においては特筆すべきものであり、こうした活動を基盤に福祉施設やそのサービスを充実させている。併せて文化行政と人材育成にも取り組んでいる。住民自治活動、図書館活動などボランティア活動が非常に活発であり我が町の誇りであり宝である。
 東日本大震災には言葉もないが、被災者の学童や都市住民、また農家の受け入れにも尽力したいと考えている。田舎生活の良さを都市住民には理解してもらい、国民共通の資産である広い緑豊かな町土を定住の地として選択してもらうことも考えているところである。
 今後、新幹線の開通効果、高速自動車道の供用開始等を条件に、過疎を克服する新たな力強いまちづくりに挑戦していきたい。

工事が進む九州中央自動車道(九州横断自動車道延岡線)
:千滝川を跨ぐ高架橋工事

   

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昔の「陸の孤島」は今

大分県安岐町長 斉藤  幹 

 本町は佛の里国東半島の南東部に位置している。この国東半島一帯は奈良時代の末期に入り六郷満山(ろくごうまんざん)と総称された寺院が数多く建立され、六郷満山文化といわれる佛教文化が花開きました。

 瀬戸内海に面し温暖な気候、「海・山・川」の自然に恵まれた風光明媚な町で歴史的にも六郷満山佛教霊場の中心地として現在も繁栄している中山本寺の両子寺(ふたごじ)が現存する歴史、ロマン漂うところとして知られています。

豊後の聖人・三浦梅園生誕の地に立つ複合宿泊研修施設・梅園の里。レストランやお風呂、キャン
プ場の他、天球館(写真左側)では、西日本屈指の
天体望遠鏡を擁す
安岐町の主産業は農業。田園地帯にフライト野菜用 のビニールハウスが並ぶ

 半島地域の基幹産業は農林水産業で、半島特有の放射状に並んだ各谷から形成された地形で40年代まで道路網の整備が非常に遅れ、陸の孤島とさえ云われていました。更に、人口も40年〜50年まで2桁の減少をするなど過疎化が一層進行する中、幸いにして昭和46年新大分空港が、安岐・武蔵両町の海岸部に移転開港いたしました。それを機に、最先端技術企業の大分キヤノンが空港近くに立地し、続く59年県北、国東半島の19市町村が「県北国東地域テクノポリス地域」の指定を受け、本町もその圏域内となりました。テクノポリス計画は空港が核となることから本町にとっては過疎対策の好機ととらえ21世紀に向けた長期総合計画と、これまでの各過疎地域特別措置法に続く過疎振興計画によって、まちとむらの共生、やすらぎと活力、新しい産業づくり、希望と生きがい、安心して暮らせる福祉コミュニティづくりを基本目標に道路、上下水道の整備、農林漁業の基盤整備等幅広い分野にわたって計画的かつ積極的に事業実施を行い、一定の成果を挙げることができました。

 特にこの中で、本町過疎対策の目玉として自治省・国土交通省と連携して進めている若者定住促進等緊急プロジェクト事業として「梅園の里」総合整備事業を実施したところであります。

大分空港を擁す我が町には、大型企業が続々と進出 (写真は大分キヤノン(株)) 九州・瀬戸内高等学校女子駅伝競走大会。今年で
7回目を迎える本大会には、都大路に向けての最
終調整に、西日本の強豪チームが参加する

 「梅園の里」は豊後の聖人碩学先哲(せきがくせんてつ)三浦梅園(みうらばいえん)先生ゆかりの施設(旧邸)から名づけられ、その建設は行政主導ではなく、住民アンケートの結果と、地域づくりグループの提言により梅園先生、生誕の旧邸の近くに「梅園の里」総合整備事業として平成6年度から継続事業で実施致しました。そして、梅園先生が思いを馳せた歴史と文化、自然の薫り漂うゆかりの地に自然体験施設として天体観測施設(天球館)及び宿泊研修施設等を備え平成10年7月オープン、次いで国指定重要文化財の遺稿や天球儀など梅園先生をしのぶ貴重な遺品を収納、公開する「三浦梅園資料館」が平成12年10月オープンし、過疎地の両施設のオープンによって癒しや自然を求め国東半島を訪れる観光客が急増しております。そして、この施設を核とし「九州瀬戸内高等学校女子駅伝競走大会」が「梅園CUP」として高校女子駅伝有名校が出場する西日本屈指の大会に発展し今年で7回目を数えるようになりました。

 昭和40年代「陸の孤島」と云われた当地域は、過疎対策事業の支援を受けながら今日、空港を中心とし、大分県の空の玄関口として大きくはばたいています。

   

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「住民の心意気によるまちづくり」

大分県九重町長 坂本 和昭 

 九重町は、大分県の南西部に位置し、九州の中核都市である福岡市とは車で1時間30分の距離にある。「筑紫次郎」の名前で知られる大河「筑後川」の水源の町で、飛沫をあげる瀑布、緩やかに流れ落ちる水。そしてメサ型の山々に囲まれ、各地の温泉群と高原地帯の牧歌的の情景等、豊かな自然と資源に恵まれ、四季の変化に富む美しさは、大自然に恋をした人々の心を和ませ、年間530万人にも及ぶ観光客が訪れています。

くじゅう連山(山開き)


 昭和30年の合併当時21,000人余りであった人口も、所得倍増政策や新産業都市計画、また地域産業の環境の変動等により、若者を中心に都市部に流出し、現在では11,000人余りと激減しました。このような中でも、地域住民の心意気は旺盛で、まちづくりのために色んな取り組みが行われています。

 冬の寒さを逆手にとって、地域の親睦と活性化と図ろうと地域の有志で平成元年に始まった「九重氷の祭典」は、今年で13回を数えます。この間、暖冬傾向とは言え、マイナス10度を超える中、雪づくりのために何日も徹夜作業を行ったり、これまで多くの困難を乗り越えた結果、今では6万人を集める九州の冬の一大イベントに定着しました。また、このイベントを重ねることによって、人工で雪を作る技術を習得し、スキー場経営を始めた有志もいます。今ではスキー愛好家や沖縄県の修学旅行生を始め、年間5万人を超えるという九州におけるスキーのメッカとなりました。

 また、農村から文化を発信しようと地元に伝わる長者伝説を題材にしたミュージカルを創作しました。80人近い裏方から全てのスタッフは町民であり、2年間にわたる練習を経て、各地で発表会や公演会を開催し、大分県芸術祭では大賞を受賞しました。今後とも活動を定着して行くために、町民劇場という組織づくりができ、継続的な取り組みが始まりました。

 その他、それぞれの地域では、地域内の親睦や環境づくり、地域の活性化を図る取り組みが行われており、まさに地域ぐるみの熱い息吹が感じられます。

ミュージカル(朝日長者物語)

 

   

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「まちづくりのキーワードは『交流』」

宮崎県五ヶ瀬町長  村中 眞信 

 宮崎県五ヶ瀬町は、九州の真ん中に位置し周囲を九州中央山地に囲まれた人口5,200人余りの典型的な中山間地です。九州管内はもとより県内においてもあまり名前が知られていなかった五ヶ瀬町の知名度を高めることになったいくつかの要因があります。

 そのひとつは、日本最南端の天然スキー場「五ヶ瀬ハイランドスキー場」のオープンです。五ヶ瀬町は平均標高が620mと高いため九州には珍しく冬の寒さが厳しく積雪も多く、冬場の雪は地域住民にとって厄介ものでした。そこで、その雪を逆手にとって平成2年12月のスキー場オープンとなったわけです。県内をはじめ熊本、鹿児島、福岡などの九州一円からのスキーヤーで賑わいを見せています。また、沖縄からの修学旅行生も数多く訪れていただいています。今シーズンからは近年若者の皆さんから要望が強かったスノーボードの開放も行うことにいたしております。

五ヶ瀬ハイランドスキー場

 

日本最南端の天然スキー場


 ふたつ目は、平成6年4月、全国に先駆けて宮崎県五ヶ瀬中等教育学校(中学高校一貫教育校)が五ヶ瀬町で開校となったことです。全寮制のため開校と同時に生徒と教職員、その他関係者が五ヶ瀬町に転入してきました。全国からの視察来町者は年間数千人を数えマスコミ取材も相次いだことから全国的に本町を情報発信する結果となりました。さらには地域経済には年間1億円を越す経済効果ももたらしています。町では年2回親元を離れて学生生活を送る生徒たちをホームステイで受け入れ第二のふるさとづくりに取り組んでいます。

グリーン・ツーリズム
五ヶ瀬町総合公園Gパーク全景

 もうひとつあげれば、五ヶ瀬町総合公園「G−パーク」です。公園内には陸上競技場(400m全天候)、スポーツ広場(サッカー、ラグビー、野球)、五ヶ瀬ドーム(体育館)、宿泊施設が整備されています。平成11年4月の陸上競技場完成を機に夏場の冷涼な気候を活かしたスポーツ合宿のまちづくりに取り組んでいます。初年度からJリーグガンバ大阪や旭化成陸上部などのプロ・実業団チームが合宿に訪れ、オリンピックイヤーの今年はサッカー、陸上のオリンピック代表選手7名も含め4月からの合宿来町者数は4,000人を超え予想を上回る盛況ぶりにうれしい悲鳴です。

 このように年間を通じて五ヶ瀬町を訪れる人々が年々増えつづけています。さらに、スポーツ、レジャーだけでなく豊かな自然を生かした都市と農村との交流事業グリーン・ツーリズムにも力を注いでいます。

 新世紀を目前にした今、五ヶ瀬町 まちづくりのキーワードは『交流』。

   

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ひえつき節と平家伝説の里 椎葉村

宮崎県椎葉村長 椎葉 晃充 

  本村は九州山地の中央に位置し、面積536.2km2を有し、山林が96%を占める過疎化・高齢化・少子化が進む中山間地であります。人口3千人が厳しい白然環境の中で生活しています。
 椎葉村は「ひえつき節と平家伝説の里」また「民俗学発祥の地」とも言われておりますが、そのゆえんをご紹介します。

上椎葉ダムと女神像公園の桜 八村杉国指定天然記念物

 1185年(寿永4年)壇ノ浦の合戦に敗れた平家の残党が道無き道を逃げようやく辿り着いたのが山深き椎葉の里だったのです。しかしこの隠れ里も源氏の総大将頼朝に知れ、那須与一宗高が追討に向かうよう命令をされるのでありますが、病気に伏せっていた為に弟の大八郎宗久が追討の命を受けました。
 椎葉に向かった大八郎は険しい道を越え、やっとの事で落人を発見しますが、かつての栄華もよそにひっそりと農耕をやりながら暮らす平家一門の姿を見て哀れに思い、追討を断念。幕府には追討を果たした旨を報告。普通ならここで鎌倉に戻るところでしょうが、大八郎は屋敷を構え、この椎葉の地にとどまったのです。そればかりか、平家の守り神である厳島神社を建てたり、農耕の方法を教えるなど彼らを助け協力しあいながら暮らしておりました。そこで平清盛の末商である鶴富姫との出会いが待っていました。
 いつしか姫と大八郎にはロマンが芽生えました。
 ひえつき節
  @庭の山椒の木 鳴る鈴かけてよ 鈴の鳴ると 出ておじゃれ
  A鈴の鳴るときには 何と言うて出ましょう 駒に水やろうと言うて出ましょう
にもあるように、姫の屋敷の山椒の木に鈴をかけ、その音を合図に二人は逢瀬を重ねます。そしていつしか大八郎はこの地に安住する決意を固めるのであります。
 村中の祝福のなか鶴富姫は子どもを身ごもります。ところが、そこへ幕府からの召還命令…それまで幾度となく拒んできた大八郎ですが、今度ばかりは逃げられそうにもありません。姫に名刀『天国丸』を与え、「其の方懐妊我覚え有り。男子ならば本国下野に差し越すべし。女子ならば遣わすに及ばず。宜しく取り計らうものなり」と涙をのんで住み慣れた山里を後にするのです。生まれたのはかわいい女の子。姫は大八郎の面影を抱きながらいつくしみ育てました。後に婿を迎え、那須下野守と愛する人の名前を名乗らせたそうです。

栂尾神楽「芝ひき」
椎葉神楽国指定無形民俗文化財
那須大八郎と鶴富姫平家まつり2007
鶴富屋敷での逢瀬

 これが平家伝説とまた平家ロマンの里と言われるゆえんであります。
 また本村は「民俗学発祥の地」とも言われておりますが、当時農務省の役人とし九州視察の旅にあった柳田国男が焼畑農業に興味を持ち、椎葉に足を踏み入れたのは明治41年の夏の事でした。当時の村長中瀬淳は7日間柳田と同泊しながら付きっきりで村内を案内しました。この時の事を後に次のように語っております。
 「山の中に入って狩りの好きな村長と一緒に方々を歩いたのです。その村長が話してくれた山神の信仰、それが実に面白い、不思議でたまらない。これは是非調べてみよう!…と、まあそういう事が起因となってこの方に入った訳です。」と。
 そしてこの山里で聞き書きした狩猟儀礼(民俗学)の伝承をまとめ翌年に「後狩詞記」を発表し、日本民俗学の誕生を告げる記念すべき名著になった訳です。
 椎葉村はその秘境性ゆえ都市化の影響を受けることなく、近代まで独特の貴重な民俗文化を古態のまま継承してきました。それは狩猟であり焼畑農業であります。これらを生業とし、豊かな食文化や民謡、村内26集落それぞれ伝わる神楽があります。
 村として先人達が残してくれた多くのものを畏敬の念をもって継承していかねばと思っております。

椎葉の山々扇山松木登山口からの風景

 

   

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「火山との共存のなかで世界の桜島を情報発信」

鹿児島県桜島町長 竹ノ下 光  

 「いにしへに誰かいひけん桜島 つくしの海に富士をうつして」
と細川幽斉が詠んだ桜島。波静かな錦江湾に浮かぶ桜島は、鹿児島のシンボルである。

 桜島の誕生は、今から約13,000年前。豊かな火山の恵みは、桜島に住む人の宝であり、世界の桜島という所以でもある。

 桜島という地名の由来に、神話に登場する木花佐久夜姫が島の御神体として奉ってあったことから、咲夜島、桜島と呼ばれるようになった説、ほかに、桜島が湧出したとき、海上一面に桜の花が浮いていたという説など、桜島という名の響きにはロマンチックな言い伝えがある。

鹿児島市城台地から眺めた桜島
錦江湾と鹿児島市街地を望む
国民宿舎レインボー桜島


 桜島の噴火の歴史は、和銅元(708)年、文明、安永、大正、昭和、いずれも溶岩の流出を伴う大噴火を繰り返してきている。

 なかでも大正3年の大噴火は約30億トンの溶岩を流出し、対岸の大隅半島と陸続きとなり、桜島の中心地では、小学校、役場、郵便局、住宅などが埋没し、沖合500mの烏島を飲み込み、800平方キロもの広大な溶岩大地を形成。島の周囲を12キロも大きくした大噴火であった。桜島の歴史は、まさに噴火そのものの歴史であり、火山との共生、共存の長い歴史の継続でもある。

 想像を遙かに超える火山災害を、血のにじむような不屈の思いで克服して、豊かな郷土の礎を築いてくれた偉大な先人の努力と知恵に、日々感謝の念で一杯である。

 その一つに「子弟の教育」があった。いつ噴火するかわからない桜島に住む子どもたちに、独り立ちできる教育を身に着けさせようという熱い思いから、鹿児島市への通学船として開設されたのが昭和9年、桜島フェリー誕生の歴史である。

 農業では、火山灰土壌に最も適した桜島大根の栽培に着目した。平成13年2月に、初の桜島大根コンテストを開催し、これまでの記録は重さ31.1s、胴回り119pで世界一のギネス記録を更新中である。もう一つの特産世界一小さい桜島小みかんは、なんと一本の樹から24,649個を収穫、ギネス登録申請中である。

国内初 完全バリアフリー船 第18桜島丸
桜島大根コンテスト優勝者
ギネス記録保持者・大野学氏


 今年で創立70周年を迎える町営桜島フェリー(6隻所有のうち、1隻がバリアフリー船)は、昭和59年に24時間運航を開始、今では鹿児島市との間を1日176便704qを走り、年間の利用者は520万人を超え、車両160万台を運ぶ世界一の記録としてギネスに登録するようにしている。

 小さな町から世界への情報発信を合言葉に知恵を絞ってきた本町でも平成の大合併の波を受け、今年11月に県都鹿児島市への編入合併(1市5町)が決定している。

 しかし、私たち桜島町民は歴史に学ぶように、火山との共生、共存をキーワードに、先人たちの生き方に学び、郷土を限りなく愛する「愛郷無限」の志しを受け継いでいくことであるとあらためて想う 。

   
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〜美しい博愛の心を文化遺産として〜
 「うえのドイツ文化村」で地域の活性化を!


沖縄県上野村長 川田 正一  

 上野村は、沖縄本島から南西におよそ300キロメートル離れた宮古群島の主島である宮古島の中央に位置し、宮古の空の玄関口宮古空港から南方へ車で約10分のところにあり、宮古島で唯一自衛隊の通信基地がある野原岳を背後に、眼下に遠くは来間島、伊良部島を眺望し、洋々たる太平洋に臨み、変化に富んだ美しい海岸線が続く景勝の地であります。

 本村の産業は、さとうきびを基幹作物とする農業が大きなウエイトを占めておりますが、近年、官民各種の施設形成により、観光関連産業が飛躍的に進展しております。とりわけ、南岸地域のドイツ文化村に連係する地域特性を活かしたリゾート開発は、宮古地域における広域観光の拠点としての機能を高め、今後新たな産業の芽生えを刺激すると期待されます。本村における観光リゾート開発は水産業や製造加工業との関連でも、新たな企業立地を誘発する起爆剤としての役割を持っており、村の活性化に大きな期待を寄せているところであります。



うえのドイツ文化村

 また、地域活性化のプロジェクトとして、ドイツ商船ロベルトソン号の遭難救助の「博愛」をテーマにした「うえのドイツ村」を建設し、2000年の主要国首脳会議(沖縄サミット)においては、ドイツ国首相を招聘し宮古島の観光・国際交流の拠点を築くことが出来ました。うえのドイツ文化村の建設により、リゾートホテルの建設等による雇用効果の増進、国際交流の促進など村内の観光客も増大しており、今では観光・リゾート産業は村の経済に大きなインパクトを与えております。

 博愛発祥の地、上野村。1873年(明治6年)7月12日ドイツの商船ロベルトソン号が、中国からオーストラリアに向け航行中に台風に遭い、上野村宮国沖に座礁難破した際、これを発見した住民らが、一晩中たいまつの灯りで勇気づけるとともに、激浪の海にサバニ(くり舟)を漕ぎ出し乗組員を救助し、1ヵ月余りにわたり手厚く看護し無事本国へ帰国させました。ヘルツハイム船長の報告を受けたドイツ皇帝ウイルヘルム一世は、上野村民の博愛の心を称えるため軍艦を派遣して宮古島に「博愛記念碑」を建立しました。

 このような歴史的背景を基に、上野村の人々はドイツを最も身近な国として親近感と関心をもって見守り、在日のドイツ関係機関の方々とも親しく交流し情報の交換のはじめ、ドイツ関係のイベントや催しの時は相互に参加して交流を深めております。

 前述のとおり、この博愛の精神を正しく後世に伝えるとともに、国際交流の拠点としてドイツとの友好を深め末永い交流を深めるため、更には観光の振興や地域の活性化に資する目的で「うえのドイツ文化村」を建設し、今では宮古島の観光の拠点として観光客や島内の行楽客で終日にぎわっております。(過疎地域の活性化に対する取組が評価され平成8年度全国過疎地域活性化連盟会長賞を受賞)

(うえのドイツ文化村)ダンケフェスト
イルミネーションフェスタ

 また、2000年7月に沖縄県で開催されたサミットに出席のため来県された際、シュレーダードイツ連邦共和国首相がうえののドイツ文化村を訪問され、宮古島の児童生徒や住民との温かい心の交流が実現し、「小さな島」での「大きな国際交流」は今後の友好親善交流に新たな歴史を刻むことができました。シュレーダードイツ国首相の本村来島は、小さな宮古島を広く世界に向けて発信し、世界の中の宮古島として、将来、地域の経済活性化、国際化に資する画期的な出来事でありました。今後は、これまでの招聘活動で培った大きなネットワークを、地域活性化に活かす創意工夫と21世紀を担う子ども達の夢が叶えられる、社会づくり及び「活力と魅力ある」村づくりに全力で取り組んで参りたいと考えております。

   

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