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"観光の風はやて 躍動する十和田湖、奥入瀬"

青森県十和田湖町長 渡部  毅 

 鏡のような湖面に、木々を映す神秘の十和田湖。千変万化の姿を見せる奥入瀬渓流。雄大な八甲田山の山並み。森の中にこんこんと沸く、奥入瀬源流水。


新緑の奥入瀬渓流(阿修羅の流れ)

 十和田湖町は、青森県の南部、八甲田山麓から十和田湖に至る豊かな自然に恵まれた町です。町の大半は、十和田、八幡平国立公園の中にあり、十和田湖温泉郷、蔦、猿倉、谷地、十和田湖畔温泉など湯量豊かな温泉に恵まれ、毎年250万人の観光客が訪れています。昭和30年4月1日、十和田町として町制を施行、昭和50年4月1日には、町制施行20周年を機に十和田湖町として町名を改め、景勝地、十和田湖のある観光と農業の町として発展を続けております。

 町の人口は、昭和35年の10,870人をピークに減少を続け、現在は、5,987人となっています。また町の総面積は372.74平方kmで県下第二位の広さをもち、県全体の4%をしめています。

初夏の十和田湖

錦秋の十和田湖

 町では、潤いとにぎわいのある町をめざして、アルカディアンタウン十和田湖21プランを策定。平成7年度から観光物産館や大型トイレ、大型駐車場、道の駅奥入瀬ろまんパークを整備、さらにステーキハウス・味蕾館、地ビール醸造施設・奥入瀬麦酒館、農畜産物加工施設・味楽工房などを整備し、明日を担う若者が、誇りと喜びにあふれ生活できる魅力的な町づくりを戦略的かつ積極的に推進しています。

 昨年の12月1日には、青森県民大望の新幹線が八戸まで開業になり、東京―八戸間が2時間56分で結ばれたことに伴い、観光客の動向も大きく変化してきております。また昨年の11月には、十和田湖畔に念願の温泉が誕生し、観光地の魅力づくりに貢献しています。

 町ではこのような状況を踏まえ、新幹線開業を生かした誘客戦略を模索しながら県、関係団体、地元等と一体となって諸施策を展開していますが、特に新幹線開業記念イベントとして、平成15年1月31日から3月2日までの31日間にわたり青森県の冬季観光開発と通年観光に向けて、十和田湖冬物語りを開催して全国から25万人の来場者があり、大変好評でありました。これからも交流人口の拡大を図りながら、住んでみたい、住んでよかったという町づくりに最善の努力を続けてまいります。

十和田湖冬物語

乙女の像ライトアップ

凛とした夜空に輝く冬花

   

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地域の再生から町の発展へ

青森県鰺ヶ沢町長  長谷川 兼己 

 鰺ヶ沢町は青森県の西方に位置し、町土は南北に細長く、北は日本海に面し、南は秋田県に接しています。総面積は342.99km2に及ぶものの、その約8割が山林で占められています。海岸線沿いに市街地が広がっているほか、町土を四分する形で流れる3河川の流域におよそ40もの集落が点在しています。その背後には、私たちの暮らしに豊かな自然の恩恵を与えてくれる雄大な白神山地が広がり、その奥地には世界自然遺産登録区域(平成5年)を擁しています。

▲ブナ林散策ゾーン「ミニ白神」
樹齢200年を超えるブナ天然林が鬱蒼と茂り、白神山地核心部の小宇宙を気軽に体感できる。(黒森地区)

▲光信公の館
津軽藩発祥の地「種里城址〜光信公の館」

 また、金鮎で知られる赤石川、日本の滝百選「くろくまの滝」のほか、津軽藩発祥の地「種里城址〜光信公の館」、ブナ林散策ゾーン「ミニ白神」が整備されるなど、豊かな自然と歴史的資源に恵まれている町です。
 鰺ヶ沢は、藩政時代、津軽藩の御用港として栄え、海上交通の門戸として重要な位置を占めていました。明治22年には市町村制施行に伴い町制をしき、昭和30年には鰺ヶ沢町、赤石村、中村、鳴沢村、舞戸村の1町4ヵ村が合併して現在の鰺ヶ沢町となっています。町は、農業や漁業を中心産業として発展を続けるとともに、津軽西部の政治・経済の中心地として歩みを続けてきました。

▲日本の滝百選「くろくまの滝」
高さ85メートル、荘厳な空気が漂う

▲かかしの里づくり
今では夏の風物詩として定着した住民の発想と手作りによるかかしの里づくり(中村地区)

 しかし、近年の社会情勢の変化をはじめ、現在では長期にわたる地域経済の低迷、官公庁出先機関の相次ぐ廃止なども加わり、合併当時は23,000人を超えていた人口も減少を続け、現在ではおよそ12,700人と、この50年で1万人以上が減っています。鰺ヶ沢町でも、過疎化はもちろん少子高齢化が進み、地域コミュニティや農村集落の維持が課題となっています。
 さらに、町の財政は逼迫し、ますます厳しい行財政運営を強いられている最中にあります。だからと言って、ただ手をこまねいているわけには行きませんが、行政が出来る部分には限界があります。
 このため、我が町では、平成12年度から、町内5地区にある地区公民館を人づくり・地域づくりの拠点として位置づけ、そこに職員を配置して、公民館活動はもとより町内会や各種団体等の地域活動を支援しながら、住民とともに取り組む「協働のまちづくり」を進めています。各地区においては、町内会組織の強化を基本に、地域福祉・地域防災、学校と地域の連携のほか地域イベントの立ち上げ・伝統芸能の復興、地域の特産開発など、徐々にではありますが一応の成果を見るようになってきています。これからも、地域の自主性を促しながら、地域の特性を生かした住民が主役の協働のまちづくりを一層進めていきたいと考えています。

▲赤石渓流
金鮎で有名な赤石渓流(赤石地区)

▲担ぎ太鼓
住民の手で復活した伝統芸能の担ぎ太鼓
(鰺ヶ沢地区)

 そこに人がいて、さらにヒト・モノ・情報が行き来すれば、必ずそこから何かが生まれるものと信じています。そのためには、行政は率先して地域に入り込んで行かなければならないと思います。地域が元気になれば町も賑わい、地域が再生することで町の発展につながる。その信念のもとに、行政の基本に立ち返り、町民とともに歩む「協働のまちづくり」に努めて参りたいと思います。


   

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産業起し今昔

岩手県一戸町長 稲葉  暉 

 一戸と書いて「いちのへ」と読む。戸(へ)は平安時代の地区の区切りの単位と言われている。1000年前の統治の規模として我が町の面積300平方qはいささか広すぎる感じがするが、なにしろ当時このあたりの主産品は馬であったので、行政の区切りは馬の生産形態にあわせて設定されたと考えれば納得がいく。広大な一つの牧場に一つの行政区が割り当てられたのである。この行政区は、一から始まって九まで順番に続く。一戸、二戸、三戸……八戸、九戸と丁度時計回りで円形に並んでいる。全体として大きな牧場地帯であったのである。

奥中山高原農協乳牛(株)乳製品加工場
奥中山高原で生産される生乳をつかって安心・新鮮・美味しい乳製品を製造している。

東京の青果市場で抜群の評価を得ている奥中山高原レタス


 源平合戦に出てくる名のある名馬も数多く産出されているのも事実である。この地名が、平安時代から始まって鎌倉、室町、江戸、明治、大正、昭和、平成の時代の変化にもかかわらずそのまま継承されてきたのも奇跡としか言いようが無い。特に明治、昭和の市町村制施行や合併の荒波もくぐってそのまま残って来たのは不思議な感じがする。今欠番であるのは四戸だけである。
 さて、馬が有史以来の特産品であると書いたが、それと並んでの産品は金と鷹の羽根だった。現実に馬と金はついこの間の太平洋戦争末期まで我が町の主産品であった。戦後、時代は変わって、地域の産業をどの方向に向かわせるかが問われ続けてきたが、今21世紀に入って国際化の急激な進展の中で更に意義のある方向付けが問われていると感じている。

 例えば、戦後我が町の農業は国民の食生活の洋風化にあわせ地域特性である夏も涼しいと言う気候を生かしてレタス、キャベツ等の高冷地野菜の生産に邁進して来た。また、前述の馬の替わりに牛を導入し、一定の酪農生産、肉牛生産の水準まで達している。産地全体としての耕種、畜産の複合経営を行いながら、今もっとも望まれている循環型社会を形成する歩みにもなっている。その意味では一応の達成感は町民にもあるのだが、そこに安住するのではなく新しい挑戦をしなければとの動きが最近具体的に強まっている。その一つが、冬の耕種農業の探求である。今迄は積雪地なので耕種農業は冬は休みであった。逆に言うと、夏だけで所得をあげると言う片肺飛行であり、営農上の大問題であった。この難しい問題に果敢にチャレンジしながら成果が出始めているのは嬉しい限りである。

冬どりのハウス促成アスパラガスの栽培

ビニールハウスで栽培される冬収穫の菌床シイタケ


 それは冬収穫の菌床シイタケであり、冬どりのハウス促成アスパラガス栽培である。これに次いで、追求する価値があるものとして検討中なのが木質バイオエネルギーを利用した新しいタイプの水耕栽培である。うまくすると一気にこの土地の農業の形が変わるかもしれない。

 もう一つの挑戦は、農産加工品への進出である。既に乳製品工場はあるのだが、我が町で作れる加工品はいくらでもある。我が町産出の素材を組み合わせただけでもロールキャベツ、コーンポタージュ……と限りがない。

 今は何点かに絞って検討を開始した。勿論過疎地であっても農業以外の産業起しも可能であると信じているし、その挑戦も少しずつだが始めている。元気な産業起しの動きがある限り過疎地は過疎地では無いと考える。

 

   

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「JOMON−NOYAKI」〜縄文の炎にロマンと感動を求めて〜

岩手県藤沢町長 佐藤  守 

 藤沢町は、岩手県を南北に縦断する北上山地の最南端の丘陵地帯に位置し、町の南西を大河北上川が流れる、人口約1万1千人の東北の典型的な中山間地の町です。町土の約60%を森林が占め、清浄な空気・水・緑・光などの豊かな自然、新鮮な食物、ゆとりある生活空間など良好な生活環境に恵まれています。

 近隣の町村から藤沢の街に入って来たとき、人々の目にまずはじめに留まるのが無造作におかれた素焼きの土器です。縄文土器、埴輪、動物さらにはアニメの主人公まで、多種多様な作品が約1キロの商店街に並べられています。これらの作品は毎年、真夏の夜を徹して行われる「藤沢野焼祭」で焼かれた作品です。

夏の夜を徹して開催される土と炎の饗宴
「藤沢野焼祭」

第25回大会で最高賞の
塩野半十郎大賞に輝いた作品
「五つの形 遊びの空間」

 藤沢野焼祭は、今から25年前地域の小さな祭として始まりました。以来、陶芸をこよなく愛する人々の情熱と町民の努力によって回を重ね、小さな炎は年々大きく広がり、今では「藤沢町」といえば「野焼祭の町ですね」という答えが返ってくるまでになりました。

 全国にも大勢この祭を応援する人たちもできました。生前の岡本太郎先生、池田満寿夫先生も熱心な応援団の方々でした。岡本太郎先生からは祭がきっかけで「ブロンズ像・縄文人」を寄贈していただきました。その時のメッセージが台座に刻まれています。「ここには縄文人がたくさんいる。私の願いは、ここから縄文人をどんどん増やして、日本中、世界中、この祭に参加している皆さんのような生き生きとした顔、動きが宇宙に満ちていく……、その原点・藤沢であって欲しいと思います」と。この言葉こそ、藤沢町民に自信と誇りを与えてくれました。

 祭の開催は、地域の持つ個性を外部に主張し、地域の存在意義をより確かなもの、普遍的なものにすることです。藤沢野焼祭の個性は「縄文」にあります。祭に参加するみんなが主役であることを基本とし、自分たちの手で企画し、資金を集め、準備をし、真夏の夜空を焦がす赤々と燃える縄文の炎を焚き続ける。感動をみんなで創っていく、このことが祭を継続する原動力となっています。

 4半世紀にわたってみんなで築き上げてきた壮大なエネルギーと、何事にも屈しない縄文スピリッツを糧に、縄文の里藤沢のまちづくりを推進してまいりたいと考えております。

故 岡本太郎氏から寄贈されたブロンズ像
「縄文人」

 

   
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岩泉町の今昔 “かつての繁栄から過疎、そして…”

岩手県岩泉町長 伊達 勝身 

 岩泉町は北上高地のほぼ中央、分水嶺を境にして、西側を県都盛岡市に、南側は宮古市、北側を久慈市に接し、東は太平洋を臨む992.92平方キロの広い町で、その93%は山林で占められ、文字通りの山間地帯です。町を南北に縦断する大石灰岩地帯には、大小100以上の鍾乳洞群が点在し、その中に日本三大鍾乳洞に数えられる「龍泉洞」があります。中から湧き出る大量の水は、名水百選の一つに数えられ、透明度の高さは地元の誇りでもあります。25年前に「水ビジネス」に参入し、「龍泉洞の水」として今では世界最高品質を誇り、岩手を代表する地域ブランドの一つにあげられています。

トロッコでの丸太運搬。製材された枕木は東京方面に船積出荷された

 昭和の大合併により1町5か村が今日の岩泉町を形成し、合併当初は2万8千人程の人口でしたが、昨年1万2千人を割ってしまいました。55年間で40%台まで人口が減少したわけです。まさに典型的な過疎地と云わざるを得ません。
 そんな岩泉町ではありますが、とても輝いた時代もありました。藩政時代後半から大正年間まででしょうか。藩政時代は、たたら製鉄を中心とする南部藩の重工業地域でありまして、その製鉄産業を中心に、運輸業(輸送を担う南部牛が専らあたりました)、さらには関連する諸産業へと連関し、明治・大正に至り、木材産業で栄え、まさに地方が独立しているかの如くあったようであります。昭和の30年代に入り、特に町村合併を境として人口は減少し始め、過疎の問題が大きく目の前に立ちはだかりました。

町の第3セクター、岩泉乳業(株)

自走式ハーベスタによるデントコーンの
収穫作業

 過疎対策としては、その中心課題に定住化対策を掲げています。それは、人口の移動は生活基盤の崩壊から始まるとの認識に立っているからであり、為に地元での雇用の確保に最も意を注いできました。
 企業誘致はもちろんのこと、町が自ら起業する、いわゆる第三セクターの拡充にも意を注いだところです。今日では、誘致した企業は6社で400人近い従業員を数え、三セクも5社、300人程の従業員を数えるに至りました。三セクについては、何処の町村でもその経営問題や課題は山積してはいると思いますが、それは当然のこととして受け止め、「健全経営無くして健全雇用無し」の理念を前提にしつつ、初期の目的を達成するために鋭意研鑽を重ねているところです。
 そのような定住化策を掲げて諸事業を実施したことが奏功したものでしょうか。一昨年から高校新卒者の地元就職希望者が求職人数を賄えない状況で、別の意味合いでの悩みも発現するに至りました。

日本3大鍾乳洞のひとつ、龍泉洞の第二地底湖

 一方では、古くから一次産業が盛んな町でもあり、その充実には様々に工夫を凝らしてきましたが、生産者自らが加工販売する、いわゆる六次産業化はその最も有効な手段であると捉えています。その考え方は、私のかねてからの持論でもありますので、是非とも成功させなければならない最重要課題として、今後さらに、力を注いで参ります。

龍泉洞の水の関連商品

 

   

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キーワードは「漫画」と「交流」

宮城県中田町長 三浦 五郎 

 中田町は宮城県の北東部に位置し、岩手県と接し町の東には北上川が流れる、肥沃な土地を有した全国でも有数の米どころであり、昭和60年には周辺過疎4町とミニ独立国「みやぎ北上連邦」を建国し、各種事業を展開しています。

 今年度で13回を数える「みやぎ北上連邦川下りレース」は、遠く関東方面からも参加があり、夏の風物詩にもなっています。当初は手作り舟を対象として実施し、趣向を凝らしたアイデア部門、スピードを競うレース部門に100艇以上の参加があり、全長20qのコースで競い合いました。現在はゴムボートによるレースが行われており、「水に親しむ」をテーマに開催しています。


町の東部を流れる北上川で毎年8月に行われる
「みやぎ北上連邦川下りレース」

 また、過疎脱却のため企業誘致や土地区画整理事業などを積極的に取り入れた結果、人口増まではいきませんでしたが、減少の歯止めには大きく貢献し、人口は17,000人あまりでここ数年は横ばいで推移しております。そして、今回の過疎地域の指定からはずれ、めでたく?過疎からの卒業となりましたが、真の「自立」に向け決意を新たにしております。

「仮面ライダー」や「サイボーク009」
などの 作品を展示した
「石の森章太郎ふるさと記念館」

青色系御影石では世界最大級の
土地区画整理事業竣工記念
モニュ メント「浮石」

 これからは、町の総合計画で掲げている将来像「みどりのふれあい交流タウン なかだ」を目指し、常住人口から交流人口増に重点を置いた施策へと転換を図っております。その一つとして、本町出身で世界的に著名な漫画家故石ノ森章太郎先生の出身地であることから、「石ノ森章太郎ふるさと記念館」を平成12年に建設し、これまでの石ノ森先生の業績をたたえるとともに、漫画を活用しての生涯学習などを含め、交流をテーマに新しい試みをしております。このマンガをテーマとした交流を進めるにあたり、宮城県石巻市、秋田県増田町との連携による「みちのくまんがロード連絡協議会」を平成13年4月に設立し、石巻市「石ノ森萬画館」⇔中田町「石ノ森章太郎ふるさと記念館」⇔増田町「まんが美術館」を結んだ"みちのくまんがロード"を開通させました。今後は協議会の設立趣旨である地域文化や資源、歴史、風土を生かした地域情報の発信、地域間交流による相互発展を目指し、共同PRや企画展の共同開催など、具体的な事業展開を検討していくことにしています。

 もう一つのテーマは町民の町政への参加で「町民と行政が織りなす躍動のまちづくり」をスローガンに、より町民が町政に参加できる環境を整えているところです。特に、近年のインターネット普及状況からITを活用した方策など検討しており、人口過疎は脱却したものの、これからは情報過疎になる可能性もあり、情報過疎に陥らないための施策も重要な課題となっています。

 今後も、町民と行政のパートナーシップのもとに「町民と行政が織りなす躍動のまちづくり」をより一層推進していきたいと考えています。

   

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「雪と自然を存分に活用」

秋田県東成瀬村長  佐々木 哲男 

 東成瀬村は、奥羽山脈に抱かれた秋田県の東南端に位置し、岩手・宮城両県に接する県際の村です。

 栗駒山系を源流として村を南北に、途中から東西に貫流する成瀬川沿いに、わずかに開かれた西方を秋田県横手市増田町に国道342号線によって通じる典型的な中山間地域ですが、平成の大合併では自立計画を策定し、独自の行政運営を進めているところです。


むかしとんぼ

 1年の約5ヶ月間は積雪期間であり、村内全域が特別豪雪地域にも指定されています。この天恵である雪は、豊かな水と山林、山野草、山菜を育み、さらには山間高冷地の特徴である冷涼な気候が、高冷地野菜に不断な水分と甘味を供給し、日持ちの良い高冷地野菜を生産する絶好の産地となっています。

 豊かな湧水と清新な大気により、村内の随所にゲンジボタルが棲息し、ムカシトンボ、アオイトトンボ、ミドリシジミ、オオムラサキなどの鮮やかな色彩を持つ昆虫類の桃源郷です。このような澄み切った大気が、環境省が調査した全国428の観測地点の中から「美しい星空日本一」の村に認定されたことからも、村の姿が推察いただけると思います。

ジュネス栗駒スキー場(ホテルブラン)
栗駒山荘 夜景

 わが村は、歴史的には秋田藩と伊達藩との交易の要路となっていた手倉越の街道によって発展し、近年では、水戸藩からの高僧が修行したとされる仙人山の地名に因み「仙人の郷」として現代離れあふれる仙人修行が注目され、これを中心にしてイベントと地域づくりを進めています。

 また、広大な自然資源を活用した冬季スポーツやアウトドアスポーツにも着目し、秋田県内でも有数の集客力を誇る「ジュネス栗駒スキー場」を第三セクターによって経営する一方、栗駒国定公園の一画をなす岩手県境に立地する須川高原の温泉宿泊施設「栗駒山荘」は、1100メートルの高原保養と眺望に優れ、乳白色の豊富な湯量と、栗駒山や湿原と高原植物、野鳥、昆虫とのふれあいを楽しむ登山基地として、またトレッキングコース基地として脚光を浴びています。

ジュネス栗駒スキー場
栗駒山荘 露天風呂

 これらの事業は若い世代を中心に約100名を超える雇用の場として定着しており、この地域の下流では、2017年完成を目指して「成瀬ダム」事業が進行しており、この事業と密接な連携をはかり、経済効果と行政効果が次代にしっかりと引き継がれるよう「まちづくり計画」「水源地域整備計画」「過疎地域活性化計画」「総合発展計画」のもとに、地域特性を活かした着実な地域づくりを進めているところです。

   

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「豊かなり過疎」

秋田県皆瀬村長  後藤 市之丞 

 東北六県のど真ん中、栗駒国定公園の北側に我が皆瀬村はある。秋田県の内陸最南に位置する。

 今年で村制111年を迎えた、人口3,200人弱の、栗駒山を背にした川筋の村です。
 村は多聞にもれずここ40年、ひたすら日本のモデル過疎のような道を歩んできた。
 今さらの感もするが、日本は二十一世紀は少子高齢化の対応に苦慮すると云う。
 わが村の近年の出生数は二十数名程度。一方、新シニアが毎年四十数名。
 云うなれば日本の21世紀社会の先駆の村と云ってもいいのかもしれない。
 しかしこの間にわが村は、21世紀日本を生き抜く術(すべ)を蓄えてきた。

 労働力不足、年金保険医療費負担、食糧生産、エネルギー確保、環境汚染と破壊、マイナス経済、情報氾濫、日進月歩の電算対応等々。
 生きがいがあり、定年のない農村には、これらの問題をクリアしていく力が内在している。
 今は巨大都市となっているが、かつて幕末には数軒の家が存在する漁村にすぎなかったと云う。

 また単なる森と思われていたのが、かつては栄華を極めたであろう都の遺跡であったことを想像するとき、不滅のわが村の歴史に喝采。

 皆瀬村の生活痕跡は、五千年前の縄文後期にさかのぼる。来、四季の変化に適応する、のどかで忍耐強い人間が形成されてきた。
 中世以降の中央の目は、このような地方の人間性を資源として利用の限りを尽くし、今になって過疎地方は投資不用の資源枯渇地と云うのか。

 破壊し尽くした都市自然の代替として、地方は自然のままでいろとでも。
 集団就職、出稼ぎ、減反、農産物輸入自由化等々の農村離れ政策。
 それでも村は農地、山林に価値観を見いだし、脈々と歴史を乗り越えてきた。豊かなり過疎。

産地直売場の内部

産地直売場の施設

 

年間30万人の観光客で賑わう小安峡温泉

 

   

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幸せづくり序章〜過疎から華蘇へ〜

山形県小国町長 小野 精一 

 朝、窓の外を眺めたら、一面真っ白になっていた。白い森の国"おぐに"をまちづくりのスローガンに掲げているが、今冬の降雪量は少ない方を選択して欲しいと、天に願った瞬間だった。平成18年豪雪では、町道の除排雪経費は約4億円に達した。国道除雪、県道除雪、JR並びに民間施設の除排雪経費を推計すると、一冬に小国町に投下される除排雪経費は15億円を超える。
 三八豪雪当時(昭和39年)、雪は積もるもの、冬は雪の上を歩くものだった。この雪は、地域の連帯意識を醸成し、雪国文化を育んできた。私は、このことを大切にし、町民の幸せづくりを追求してきた。


晩秋の陽に輝く冠雪した飯豊山脈(樽口峠からの眺望)

 2009年のNHK大河ドラマに、上杉の智将、直江兼続の生涯を描く「天地人」に決定した。米沢藩が舞台になることに大きな期待を抱いている。私が企画係長として、まちづくり総合計画を手がけたとき、町の置かれている環境を「天の利」「地の利」「人の利」としてとらえ、小国町のすぐれた条件と特性として整理した。

 端的に言えば、「天の利」とは全国屈指の豪雪地帯であるということ。「地の利」とは東京23区よりも広い町土を持っているということ。「人の利」とは相互扶助を柱とする地域の連帯意識が強いこと。である。以来小国町は「天と地と人の利」をまちづくりのエネルギー源として諸施策を展開してきた。

 そのいくつかをご紹介したい。
 平成19年6月、森林セラピー基地が誕生した。飯豊山麓の温身平に温存されているブナの原生林が、全国から選ばれた森の舞台になっている。森がもっている癒しの効果を活かし、ストレスに蝕まれている「こころ」と「からだ」の元気を取り戻そうと試みている。

森林セラピー基地「音身平」
(セラピーメニュー森林散策の様子)
天の恵み"雪"の中に佇む国民宿舎
「飯豊梅花皮荘」

 基地の麓には、800年前、マタギによって発見された温泉を楽しめる国民宿舎「飯豊梅花皮荘」がある。第三セクター「おぐに白い森(株)」が運営しているが、山菜、きのこ、岩魚などの地元産の食材でお持て成ししている。森林浴、温泉浴、マタギ浴で、もうひとりの自分を見いだすことができる。

 私は、町長に就任すると同時に、癒しの園の仕上げに全力を傾注した。癒しの園とは、町立病院(55床)、健康管理センター(健康福祉課、子育て支援センター、地域包括支援センター、訪問看護ステーション)、介護老人保健施設「温身の郷」(入所定員50名)から構成される包括ケア施設である。

 この施設に、一幅の書がある。昭和8年、小国町に設立された基督教独立学園の書道教師が、入院していた時に書かれた「八木重吉のねがい」という詩である。〜きれいなきもちでいよう〜と書き出されている。私は「癒し」の原点であると思う。
 私の「まちづくり章」は、○○章としてエンドレスに追録されている。住民と民間と行政の協働の地域耕しで、「過疎から華蘇へ」に白い森の国「おぐに」を構築していく。そのための序章を私はまた補完する。


癒しの園全景
(中央:町立病院、健康管理センター 中央右:介護老人保健施設「温身の郷」)

   

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「悠久の時が流れる山間(やまあい)の町」

福島県只見町長 小沼  昇 

 只見町は福島県の西南端に位置し、新潟県に接する標高377m、面積747.54km2の典型的な山間地域です。また、昭和26年、本町を中心とする只見川流域が「只見柳津県立自然公園」に、昭和46年には越後山脈南部が「越後三山只見国定公園」に指定された風光明媚な町です。


越後三山只見国定公園


 尾瀬を源として流れる只見川の流域にあり、日本でも有数の多雪地帯で、年間の降雪累計が20mを越すことも珍しくありません。

 豊富な雪解け水は電源の源になり、延長260kmの只見川水系に設置された水力発電所は34箇所、総発電量は328.7万kwを超え、只見川電源開発によって生み出された電気エネルギーは、戦後の荒廃した日本の復興を担いました。

 町は4年前、合併前の九村毎に住民自治の拠点となる「地区センター」を設け、集落の活性化に取り組んでいます。人は夢をもち、楽しく語ることができるところに集います。そして、そこは安心して暮らせるところである事が大切です。地域づくりの気概がそれぞれの集落におこり、それが集落の「力」として絶えず行政と共にあることが重要です。集落が元気になれば町も元気になります。このような事から、本町の27集落それぞれが知恵を出し合い、集落活性化計画を作りその実現に汗を流しています。町は今、町民総ぐるみの「産業起し運動」にも取り組んでいます。町内幅広い業種や職種から「産業起し懇話会」にも参加を頂き、産業間の連携を図りながら、自然条件を活かした「新たな産業起し」を模索しています。農林業と観光を基幹産業として位置づけ、生産・流通・販売をもマルチ化した、本物志向の足腰の強い産業基盤が生れるものと期待しています。

ブナの原生林(恵みの森)

河井継之助記念館

 さて、面積の94%を森林が占める只見町には、ブナを主とする落葉広葉樹林が広がり、多様性のある豊かな自然が広がっています。渓畔林にはトチノキやカツラ・サルグルミなどが鬱蒼と繁り、多くの稀少動植物も生息しています。今、その自然環境が世界的にも価値があるものとして注目され、地域でも「ユネスコ世界自然遺産」級の資源を保護しようという運動が広がっています。
 また、只見町の歴史は大変古く、町内からは旧石器時代の遺跡も発見されており、四季の変化に富んだ豊かな自然と共に、古くから人々の営みがあったようです。

 長い歴史の中で、人々はこの地方独自の生活様式を生み出しました。それらは脈々と使われ親しまれてきた「民具」に色濃く反映しています。近年只見町の民具が、その特色ある活用保存運動と共に高く評価され、平成15年2月、国の重要有形民俗文化財に指定されました。

 越後と会津、そして八里が八十里に値するほど厳しく険しいと例えられる八十里越峠、維新を駆け抜けた越後長岡藩家老「河井継之助」がこの峠を越え、会津に向かう途中、非業の最期を遂げ只見の地に眠っています。ここ只見町と新潟県央100万人都市圏を結ぶ国道289号(八十里越峠)…時を越え、越後山脈を貫き今また数年後に再開通します。

 大自然に抱かれ、静かに悠久の時を刻む奥会津只見町にも確実に改革の波が押し寄せ、時あたかも鎖国から開国に向かった日本のように、多くを受け入れ多くを与えなければなりません。そして、これが産業の振興に結び、若者が定住し、過疎からの脱却の契機になるものと期待を寄せています。

お年寄りによる民具の保存活動

   

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"村は人也"  誇りのもてる元気な地域をめざして!

福島県川内村長 遠 藤 雄 幸 

 「楽しいね、みんなで育む元気な村づくり!」
 このキャッチフレーズは、川内村の長期総合計画に基づく村民の合言葉となっています。
 本村は、福島県浜通り地方の中部にあって、阿武隈高地の最高峰、大滝根山(1,193m)の東山麓に位置し、人口3,200人の小さな自治体です。美しい自然と豊かな森林資源に恵まれた約200km2の広がりをもつ広大な丘陵地にあり、澄んだ空の下には源流の木戸川と多くの小河川に恵まれ、いまだに清らかな流れを保っており、その地形から川内村の語源とも言われています。その自慢する「水」はたいへんおいしく全家庭が地下水や湧き水であり、県内唯一、近代的な水道とは縁がありません。また地盤は堅固な花崗岩であるため、地震に対する安全性は極めて高いとも言われています。

川内村のキャラクター
自然の村長モリタロウくん
いわな釣りが楽しめる「いわなの郷」

 基幹産業は農業で、稲作を中心として畜産、野菜の複合経営となっています。特に、高原野菜としてのインゲンは緑鮮やかで評判も非常に良いことから特産品となっております。また最近では高原の利を生かした「そば」の作付けも多くなって量と風味ともに好評であり、さらに昔からの寒冷な気候を利用した「凍み餅」「凍み大根」に加えて「いわな寒風干し」もブランド化しつつあります。

 かつて高度経済成長と同時に若者が首都圏に転出していったこともあり、過疎化と少子・高齢化の真っ只中にありますが、最近では、農村空間の癒しを求めて首都圏からの転入者も年々増加しております。また交流人口の拡大を狙いに整備した「いわなの郷」では自然の中で気軽にいわな釣りを楽しむことができ、そして温泉交流施設である「かわうちの湯」はアルカリ度が高く、肌がつるつるとなることから美人の湯とも呼ばれ多くの利用者が本村を訪れております。

美人の湯と呼ばれている「かわうちの湯」
高原の利を活かした「蕎麦畑」

 厳しい財政状況の中で、「身の丈」にあった行政運営を基本に、村民の皆様の利便性、そして満足のできる環境を図る観点から、昨年は情報インフラの整備として、村内全域に光ファイバ網を張り巡らせました。そして今は亡き詩人の草野心平先生から贈られた「村は人也」という書があり、まさに"人づくりは村づくり、村づくりは人づくり"でありますから、地域を担う人材育成として村営の学習塾「かわうち興学塾」を創設しました。

 住民のニーズは、心の豊かさを背景として、複雑多岐にわたっておりますが、小さな自治体特有の「人の顔が見え、住民の声が直接聞こえる。」が最大の利点であり、小回りの利くスピード感あふれるサービスを前面に打ち出しながら、住民の満足度を高めていくことも、今後の経営戦略の一つであると信じています。

 自分たちの村は、自分たちで決めていく!という理念のもとに、「小さな自治」は「大きな幸福づくり」、そして"住んでて良かったと思える元気な地域づくり"になるよう村民とともに精一杯、汗を流し、知恵を出しながら元気な自治体を模索して行きたいと思っております。
おわりに、我々過疎自治体のますますのご発展と、皆様のご健勝とご多幸をお祈り申し上げます。

詩人、草野心平先生が愛した「天山文庫」
三大祭りの一つ
「OH湯といわなときのこの祭り」

   

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